Monday, January 30, 2006

テン、あらわる!!!


寮住まいをしているベルおじさん、もとい、ベルキャプテンの様子が、少し前から変だとの噂は聞いていたが、ついに”テン”が訪問してくるようになったそうだ。毎晩、8時前後だそうだ。

そして、こう語りかけるそうだ。

「ちっぽけなことは気にするなよ。」

自然の驚異というのはいたるところにあるもので、私も早くその恩恵に肖ってみたいとは思っているのだが、未だなかなか機会に恵まれずにいる。

Monday, January 23, 2006

私論「港が見える丘公園」


私の快眠を邪魔するものは、「港が見える丘公園」だった。

27時、、、、。8ミリ映写機は、その古びた回転音とモノトーンの映像で、眠りを貪っていた私をたたき起こしたのだ。しかもBGM付だ。何てこった、”秋の気配”だ。

確かにあの近くに長く住んでいたことがあり、ちょうど上の子が生まれた頃で、ちょくちょく一緒に連れては遊びに行っていた、思い出の場所だ。
何といっても、胸をキュンとさせる(死語!!!)ネーミングが、内陸育ちの私を泣かせるのにはそれだけで充分であった。

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人間というのは、肉体的にも精神的にも、偏りはじめるとそれを修正しようとする力が自然と作用するそうだ。これか、、、。
カラダやココロが欲しがっている?中性にしようとしているのだ。

ニュートラル。

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あそこに何があった?空、海、港、、、、。
わかった、、、、、、、、あの距離感だ。あの海を見渡せる場所の、あの微妙な距離感だ。

いまになって思えば、あの感覚に妙に”安堵”していたのだ。
安心ではなく、”安堵”だ。

Tuesday, January 17, 2006

3:1


とある常連のお客さまのお話。御歳、70と数歳と推定される。

この時期は、日曜日からの3泊を毎週繰り返して通っていただいている。3泊といっても、東京までの帰路を考えると、実質4日間となる。週7日のうち4日間を奥志賀のために費やす。
これが約3ヶ月間続く。

さらにこうだ。

「1年12ヶ月のうちの3ヶ月は奥志賀通いをする。残りの9ヶ月は、その3ヶ月のための体力作りのために、ジム通いに明け暮れる。」
3:1の生活なのだ。

実際に思い浮かべてしまうと失礼に当たるかもしれないが、大仏のような顔つきでお話されたことが印象深い。

「ライフスタイル」というものは、こういう事かもしれない。
それが見つかると、きっと楽になれるのだ

Thursday, January 12, 2006

奥志賀で天使に出会う


寒気も大分落ち着いてきたようだが、被害に会われた方や、いまなお戦っていらっしゃる方々には心よりお見舞い申し上げます。

不謹慎なようだが、こういう時期の自然が見せる”アブナイ”景色には思わずハッとさせられる。

幸か不幸か、奥志賀に半強制居候(”リブイン”言ってくれる人もいる)を始めてから、時たま出会うことのある光景なのだが、特段、自然を愛でて止まないタイプとは言い難い私と言えども、これには敬服せざるを得ない。

ここまではイイ話なのだが、問題はこの先だ。

残念なことに、お伝えすることができないのだ。最先端のデジタル技術を駆使しても不可能なのだ。それはご想像のとおり、”現場の空気感”をお伝えできないからだ。あの、包まれるような感覚・・・。

先日あるお客さまとお話した。お越しいただく時は大概3泊か4泊される。
そしてこう仰るのだ。

「滞在中に、1回でも見れればそれで満足なのよねえ、あの景色が・・・・・。」

この私に多少なりとも信仰心(?)があったとすれば、天使を見た瞬間(フリ仮名は”とき”としよう)となっていたことだろう。

Saturday, January 07, 2006

奥志賀のステータス?


年始という時期は普段めったにない事も起こるもので、とある著名な社長が奥様を連れ立って、
わざわざ私を訪ねてきていただいて恐縮した。
志賀高原の歴史を紐解くと必ずやお名前の出る方で、先代の時から地元住民とは違ったスタンスで志賀高原に多大な貢献をなされてきた方だ。

今年の雪の多さや、また地域によっては雪害まで発生してしまっていること、さらに世間のそういったムードの影響を非常に受け易い地域であること、などの話題から始まり、リゾート地への移動時間の話になった。

ご想像のとおり、都心から奥志賀へ来るための移動時間を含めた労力と、北海道や、さらにはサイパン(比較の対象としての疑問はあるが)などの海外へのそれとの比較の話だ。話を遠回りさせる必要もなく、「なぜ奥志賀なのか?」という段になった。

やはり私などの俗化された大衆人間とは薀蓄が違うことを、まざまざと見せ付けられる結果となるのだが、氏の口元からは、まさか出てはこないだろうと思っていた言葉がいとも簡単に、臆面もなく発せられた。

「ステータスでしょう。」

しかしこれを解釈するにあたって、見逃してはならない重要な点がある。そう、氏は私などの庶民とはお育ちが違うのだ。それも、おそらくは圧倒的にだ。つまり、”ステータス”という表現を発するときの、立脚点が異なるのだ。



高揚をもって次回へ続く、、、、。